後効きする神のピアノ

仙台フィル復興定期、室内楽シリーズより、以下のコンサートを聴く。

ピアノ:倉戸 テル、オーボエ:西沢 澄博、クラリネット:日比野 裕幸、ホルン:須田 一之、ファゴット:水野 一英

モーツァルト「ピアノと木管のための五重奏曲 変ホ長調 K.452」
ベートーヴェン「五重奏曲 変ホ長調 作品16」

モーツァルトモーツァルトは、その音楽を、生演奏、ライヴで聴くことより、録音物で聞くイメージのほうが、どうしても強くなっててしまうのかなあ、なんてことを思う。なぜか。今夜のこの演奏の、ダイナミックレンジを面白く感じたからである。面白く感じたのだから、違和感ではない。しかも、たぶん、おそらく、録音物から想像する勝手なモーツアルトのあるべき(もちろんそんなものはないんだけど)音圧みたいなものを、どうしても持ってしまうんだと思う。ピアノはすこし、今夜は、輪郭をはっきり目に、持ってきてるかな、ホルンとファゴットは肉厚のステーキ、クラリネットはやや薄く感じる、オーボエに絶妙なレンジでの存在感を感じる。

楽章を、追うごとに、ああ、ライヴなんだ、ということにしみじみし、音楽を堪能した。まさにライヴである、いまここで、新しい何かが、立ち上がっている、そんな感じである。

ベートーヴェン。今夜のこの、アンサンブルのライヴ感が、さらに高まる。面白かった。楽しかった。ブラボー。ピアノは本当に自由闊達であった。こうしてモーツァルトと、ベートーヴェンの、同じ編成の楽曲を並べてみると、音楽の歴史における時空をチョビットだけ超えて、二人の後に天才となる青年が、音楽を愛す、という一点で思いをひとつに抱き、並んではにかみながら立っているような、とても幸せな風景を見ているようである。モーツァルトは、その後、古典という形式の中でこれでもかというほど、純化して行き、ベートーヴェンは、古典派での形式を限界まで攻め込み、やがて突破してしまった。その後は全く違う歩みを見せるものの、このクインテットの二曲はよく似ている。似て非なるけど、似てる。幸せなプログラミングである。ピアノの倉戸のステージでの挨拶に、このようなすばらしいメンバーと演奏できて、といった言葉があったが、その言葉に寸分の嘘もないと感じる、見事な、復興定期、室内楽シリーズにふさわしい演奏会の演奏だった。

それにしても倉戸のピアノである。自分は数年前に初めて彼の演奏を聞き、そのすばらしさに腰を抜かすほどのショックを受け、その後機会があれば、彼の室内楽のステージを追いかけてきた。今夜の彼は、いままでにないピアニスティックな側面を感じさせてくれた。中間的なやわらかい音色はどちらかというと影をひそめ、隅々まで、よく鳴り、よく歌っていた。ダイナミックレンジが、fのほうに振れていた、ということではない。彼のソロリサイタルの開催の機運は高まっていると俺はまたしても勝手にここに書いておく。

神のピアノは後効きする。倉戸のブラームスのピアノ協奏曲1番を聴いたとき以上に、そのことがわかる。聴いている最中は、いろいろおもうわけだ。神をもおそれない傲慢な気持ちになれるなら、例えば、「俺ならこうは弾かない」とか。シンプルにいけば「もっとルバートが」とか、モルトエスプレッシーボでは、「楽譜はそこまで書いてないんじゃない」とか。こだまでしょうか?いいえ勝手な聴衆です、ってなわけで。でも、演奏の読後感とでもいったらいいのか、もう、時間が少したったときの、見事さの余韻は、えもいわれぬものがある。

かつて衝撃を受けた倉戸の室内楽でのピアノに「カーロ・ミオ・ベン」がある。八分音符がかすかに転んだような箇所があったようにおもうけど、でも、でも、彼のピアノの、というか、音楽の見事さはそんなことではなかった。中川賢一がピアノでチェロに伴ったとき、和音を弾き終え次の跳躍で、必ず、ワンテンポ以上はやく、余裕を持って、その次の和音の位置に手をもっていったのを見た。彼がピアノ職人のように歩んできた演奏活動の歩みの一旦を垣間見た気がした。倉戸は、全く別の職人である。倉戸は、そんな手のポジショニングは逆にやらないようなピアノを奏でる(実際は必ず少しはやるだろうものだけど)。

俺の空想の、倉戸さんとの会話に次のようなものがある。
おれ「倉戸先生、ショパンコンクールとか、考えなかったのですか?」
倉戸「えっ?そんな危ないことして、タッチを崩してもなあ。」

そんな倉戸のピアノなんだけど、まだ聴いたことがない人がいたら、こんな文章ではほとんどつたわらないだろうので、是非きいてみてください、機会があったら。

藝大ピアノ科では、日本音コンの優勝者がいない学年は、「スター不在」とかになるそうである。
宮城県の大学界隈では、俺の大学時代、「○○さん、日本音コンの一次、通ったんだって!」「え?すげー」である。

自分が藝大ピアノ科を受験したとき、定員28人であるものの、そのうち半分は藝高からの進学。それはエスカレーター式にあがってくるのではなく、まったく同じ条件で受験するのに、なんだといわれた。
後に藝大ピアノ科を卒業し、世界的に活躍するピアニストでも、「藝高は落ちた」という人もいる。

そして、宮城県の高校から、藝大のピアノ科に進学したひとは、何十年もいない時代もあった。

そんな宮城県と中央楽壇の差は、インフラなども含めて、単なる環境やレヴェルの差のところもあるだろうけれど、それを差し引いたところにある「差別意識」みたいなものが、仮にあるとしたら、そういったものが今回の震災で少し、出てきてるのではないか。どうたろう。すごく微妙でやっかいなもんだいだけど、仮に少しでもあるなら、避けがたい重要性がここにはあるとおもうのだ。俺の恩師の一人が、本当に熱を込めていっていた、忘れられない台詞がある。「地方の時代って何だ!?地方を喰いものにするだけじゃないのか!?」と。

俺は、藝高−藝大のすごいやつ、っていったいどんなんなんだよ、と、若いときずーっとおもっていた。怖いものみたさの部分もあった。でも実際はびびって、本気で見ようとはしなかったのかもしれない。田舎のお山の大将のポジションになるべくなら、逃げたいとおもっていたのかもしれない。

東北に震災があって、コンサート会場が使えなくなって、でも、使える会場があって、ボランティアで、入場無料のコンサートが、「地元の」プロの演奏家たちによって開催された。この日、この夜、すごいやつは、俺の目の前で、とびきり喜びに満ちる演奏を奏でていた。俺はもう、自意識上で、びびるとかいうほど、若くもないし、子どもでもない。でも、すごいやつが、宮城県にきて、そして、何年かでも、根を張ってくれて、いまも、その根は確かにあって、プロの演奏を奏でてくれることの意味は、震災後の今、大きいと思う。

ベートーヴェン:街の歌

ベートーヴェン:街の歌