9月5日仙台でユジャ・ワンをきいたわけだが。

 プログラムは以下。

【9/5(月)仙台・日立システムズホール】
シューマンクライスレリアーナop.16
ショパン: バラード第1番 ト短調 op.23
カプースチン: 変奏曲 op.41
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第29番 変ロ長調 op.106 「ハンマークラヴィーア」


 かつて「東洋人と女性にピアノは弾けない」といったホロビッツは、ユジャ・ワンのピアノをどう聴くのだろうか。しかも、自分の孫弟子である。ラン・ランに引き続き、といってもいいかもしれないが、この点は。

 圧倒的なテクニックの持ち主でそれが安定して常に発揮されることは、多くの人が感じるであろう、彼女の演奏の特色の一つである。

 この部分は本当にすごい。音楽にノっている感じと集中力の持続の両立。自分が生で聴いたピアニストと比べるなら、安定度はラドゥ=ルプーに匹敵するが、表現としてはユジャの方ががんがんアクセルを踏んでいく。直線での踏みっぷりがすごい。

 テクニック(メカニックな)もクリスティアンツィメルマンに匹敵するが、ツィメルマンみたいに考えすぎな(もしくはツィメルマンをたてるなら考え抜いている)ところがない。その場の感興を音楽に乗せていくような表現は、ユジャの音をより生き生きとさせる。ユジャはCDなどの録音で聴くと思ったよりおとなしく感じるのとも、関連があるかもしれない。ライブや、CDなどの録音でなにを目指すのかについて、たとえばユジャとツィメルマンでの考え方の違いみたいなものは、あるのではないか、と思う。

 表現力では河村尚子を引き合いに出してみたい。河村が、炭火を静かに燃えさからせるように、より内向的に圧倒的になにかを深く表現しようとするなら、ユジャは揮発性の、爆発する燃料のようである。

 でも、結果ユジャは、自分の表現したいことに関して、ものすごく理にかなっているとおもうのだ。
 
 レーシングカーがサーキットで如何に速くタイムを出すかのアプローチを考えたとき、無駄な部分で速度を出しすぎたり、コーナーでコースアウトしたり、必要以上にタイヤをすり減らしてしまったりしたら、タイムは出ないのだ。

 ユジャは最高速度が他を抜きんでているレーシングカーのように思う。しかし、間違ったアプローチは、してないのではないか。プログラムを集中力を切らさず完奏させるスタミナのコントロールなど、その演奏の派手さとは裏腹にそれを支えているクレバーさも見逃したくないところだ。

 直線での最高速を出し惜しみしないところをパフォーマンスとみるならば、しかし、最高速パフォーマンスをみせながら、コーナー手前のハードブレーキのコントロールも見事なもので、コーナリングでコースアウトという無様なミスはしない。またタイヤマネジメントもしっかり意識しており、途中タイヤが計算外にだれてきてコントロールが利かなくなる、ということもない。

 車を好きになるときに、その好きになりかたは、どんな物であってもいい。

 キャンピングカーにカスタマイズするといった好きになりかた、デザインやかわいらしさを重視する、好きになりかた、車内をぬいぐるみのレイアウトの場所にする、という好きになりかただっていい。

 音楽を、どう、好きになるかだって、種々であり、そのどれがいいとか、悪いとか、ではない。

 自分は、車にたとえるなら、サーキットを如何に速く効率よく走ることができるか、という一つの最適解の追求があるということ、その上で、ならば、そのアプローチに個性はあるのか、という矛盾する両立に、重みを見いだすような、クラシックの演奏の楽しみ方が好きである。

 ユジャは自分の追い求める、客観性、最適解に対して合理的でありながら、しかし同時に個性的だ。そこがとても興味深い。

 演奏の最適解と合理性をいったん理解し通過して、時には最適解合理性から離れて、演奏解釈の自由さをインスピレーションを元に優先させる、ざっくりいえばそういうパターンもある。サンソン・フランソワ然りといえるか。

 演奏の最適解と合理性と、解釈の研究の極みを尽くしてっていうアプローチの方は、クラシック音楽が作曲と演奏の分業で、作曲家の書いた楽譜が元になっているという構造から、こっちがデフォルトであるようにも考えられるか、と思っている。

 いままで何人のアルゲリッチが再来してきたかはわからないが、ユジャは、アルゲリッチインパクトをオーバーロードしていく予感は、俺はする。

 アルゲリッチのバッハに南米のアフタービートを感じ取る評論家の文をみたことがあるが、ユジャには、京劇のまがまがしさ、や強烈さ、中国という国土、風土を感じる。

 非・西欧圏からのアプローチは、いずれにせよ、「クラシック音楽」「楽譜」という自分の所属する土着ではないところからでてきたものを、いやがおうでも客体化、分解しなければ、そして細かく細かく論理的に咀嚼することともってして、直感的な理解の代替とすること、代替とすることによって形成されたものら、体感的に学んだりすることの遠回りといった、単純ではないプロセスを必要とする。

 非・西欧圏からのアプローチはたいていはそこでおわる、っていう訳ではないけど、そのプロセスがとてつもない茨の道だったのではないか。少なくても20世紀の間は。

 小澤征爾がヨー・ヨー・マと対談して、非・西欧圏からの出自でいったいどれだけクラシック音楽の本質に迫れるかといっていたのは1980年代のことだったと思う。

 クラシック音楽と同じ文化圏の出自であることはアドヴァンテージである、という考えは、アルゲリッチユジャ・ワン、という演奏史を仮定するなら、どうなんだろうか、とも思う。

 ユジャがヨーロッパ文化に生まれ育ったならば、単に指が回るピアニストで終わったかもしれない想像は、それほど間違っていないきもする。

 才能(含む継続性、それは天才にあってはそうみえないけれど、努力と呼ぶものと、同一の構造と質を持つものである)を、あえて不利な(反アドヴァンテージな)環境におくことで、発生する化学反応と、なにかしらのブレイクスルー、というものは、あるのではないだろうか。

さて。

 ツイッターで彼女の演奏について、シューマンショパンについて「音が混濁して」という感想があって、なるほど、と思わせられた。

 自分はその「音が混濁」という部分に、少し触れたい。

 自分はそれは演奏上の傷ではなく美点として感じる。美点というか演奏効果である。どんな演奏効果なのかというとエレキギターにおいて「ディストーション」というエフェクターを通したときのような歪みのある音圧のある音がするのである。

 それが音楽のフレージングにおけるテンションの高まりとともに、絶妙な場所できちんとアクセルが踏み抜かれるように、音圧のある音で音が歪むので、これは、すごい演奏効果なのではないか、とおもう。

 ピアノはアコースティックな楽器である。それでもあそこまで、音が歪むまで楽器の音色を使いきるピアニストは、そうそういないのではないか。自分はユジャワンをおいて他に知らない。中川賢一のプロコやメシアンを弾くときも相当鳴ってるけど、もう少し音が整っているようにも感じる。それは白石美雪がいうように、ハンマーで太い杭を一本一本打ち込んで行くような音を中川は出すのだけれど。

 エフェクターを通してないのに、ディストーションがかかるアコースティックのピアノ。クラシック音楽という土台で。ちょっと「なにそれ」である。あるいはイタリアオペラでまるで演歌のうなりを彷彿させるような表現上のゆがみを表現上の必然として提示されたような。おれは、そこに価値を見いだす。別に「音が混濁してる」と受け取ろうが、それは人それぞれの受け取り方や、感性の違いとか、そういうので、かまわないのだが。

 それからこれもツイッターの感想で、おもしろかったのが、ユジャの弾くカプースチンがまるで上原ひろみみたいだ、という感想だ。

 これはなるほどわかる。上原ひろみはジャズのピアニストで、カプースチンはその譜面を弾けばジャズになるといわれることもある作曲家で、アドリブではなく譜面に書かれた音楽である。

 これもまた、エフェクターを通さないディストーションみたいな「なにそれ」があった。ジャズとは自分はもっとも広義な意味でのPA(パブリックアドレス)であると思うのだ。いや、ジャズにも、アコースティックピアノのアンプラグドの、アンプを通さない演奏だってふつうにあるじゃない、ということがあるかもしれないが、うーん。

 ジャズをジャズたらしめているシステマティックなものがPAみたいなものだ、とするならユジャは、そのPAシステムのないところで、当然の前提としてのPAをすべて取っ払って、カプの楽譜を足場にして、それを確かな足場としつつ、まるで上原ひろみを彷彿させるような、ジャズの奔放さ、自由さの領域を演出してみせたように、自分は感じたのだ。

 楽譜を前提とするクラシックの方がシステマティックなPAになりそうなものを、クラシックではない、クラシックほど厳密に譜面を前提にしないジャズだってこそ、ジャズのグルーブや、アドリブや、そこから表現される奔放さや自由さの演出が、じつはジャズというひとつの大きなPAに依っているのではないか、ということをユジャの演奏を聞きながら考えさせられた。

 ユジャのカプは異種格闘技であることを越えるくらい、そういう表現として成立していた。現代空手(という言葉があるのかどうか知らないが)のルールや枠組みがあるとして、そこに古武術か何かがそのまま紛れ込んでそのまま試合が成立してしまっているみたいな、奇妙さを感じだ。

 ジャズを基盤としたジャズよりも、カプの楽譜を携えたユジャは、なんというか、はるかに素手だった。素手の格闘家でありながら相手の土俵でも試合を成立させてしまう。アクロバティックといえば軽い。格闘技の本質に道具やシステムを脱ぎ捨てて迫っているような、そんなものを感じた。 

 ジャズの方がシステマティックで、それよりもカプースチンの楽譜を携えているほうが、素手の感じがする、というのは、おもしろい感覚だった。自分のなかで。

 ユジャについては賛否両論があるのは、わからなくもない。俺は河村尚子のライブで不意に胸をうたれて落涙したことはあるが、ユジャの演奏からそういう感興がわき起こることはない。

 しかし、京劇を圧縮して注入したようなユジャの圧倒的なパフォーマンスは他に追随を許さないなにかが、あるような気がする。鈴鹿サーキットでは必ず圧勝する、みたいな。モナコだったら別だけど、みたいな。

 ユジャをどんなに批判してもいいが、しかしユジャを同業者だとおもっている人が、ユジャを無視したり批判したり、軽く扱うならば、少なくても、「ユジャってこういう感じで弾くよね」っていうことを、イメージや感覚として8割でいいので再現できて(それを聞いたひとが「ああ、たしかにユジャっぽい」いえるくらいに)、その上で、自分はそういう弾き方はしない、ということをできなければ、説得力ないし、格好悪いと、自分は感じるなあ。

 音楽という大きな大きな枠組みのなかで、器楽演奏という分野は、まるでスポーツを彷彿とさせるようなメカニックを要求されることがある。ピアノはその部分で他の器楽と比べても1、2を争う楽器だ。それは器楽演奏の本質のすべてではないが、一部だとおもっている。

 器楽演奏がフィギュアスケートくらい厳密な採点競技になり得るなら(それは不可能な話だと自分は思っている、それでもあえてそういうことを想像してみるなら)、ピアノの金メダル候補の最有力は、ユジャ・ワンではないだろうか。

 トップフィギュアスケーターがアーティストでもあるならば、それに逆の側からなぞらえて、ユジャはアスリートの魅力の側面もあり、それが輝いているように見える。そう。トップスポーツ選手がアーティストでもでもあるならば、ユジャはクラシックのピアニストの側からそれらが時に表裏一体だったり同根のものではないのか、を体現する存在にも、自分は思える。