きみへ(1)

もしきみがいま、とっている態度、使っている言葉、無意識有意識に周囲にアピールしている、きみ自身の何かが反映されているものが、きみの心のこもったものとして、納得がいくのなら、さしあたって(というのは公共の福祉の問題があるからだけど)それは誰によっても否定されるべきではないとおもう。

わからない、とか、この問いかけを聞いたきみが、なんらかのネガティブな気持ちになったとしたら、では、きみにとって納得してこころがこめられるものがなにかについて、一緒に考えさせてほしい。それが僭越に過ぎるというなら、遠くそれにつながるきっかけになれば儲けもの、程度の、気晴らしに、

つきあってほしい。気晴らしは、必要だよ。サティという作曲家の、作品に、「スポーツと気晴らし」という曲があってね、これはとっても素敵な題名じゃないか。他にも、『犬のための本物のぶよぶよとした前奏曲』とか、あるんだけどね、これは素敵というより、可笑しいね。こんな変なタイトルの曲が、

サティなんかとっくの昔に死んでるのに、100年近い歴史の流れのなかで、まだ、残ってる。もうしばらく(というか、これは遠慮した言い方なんだけど、本当はもっとずっと)残るとおもう。たくさんの人が生まれて、たくさんの人が死んで、しかも日本では、毎年3万人自殺してるとかいう統計があったり

して、作曲家はとうの昔に死んでるのに、変な題名の曲が、歴史の波なんかものともせず(いや、本当は一回飲まれて、でも、誰かに発掘されたのかもしれないけど)、まだ楽譜屋さんに行けば、買うことができたりするのは、なんだか、なあ。なんというか、僕はここで、顔がほころんでしまうよ。きみは?

ベートーヴェンの話をさせてくれ(ああ、授業がしたい)。僕は、若いころから、ついこのあいだまで、ベートーヴェンの作曲作品を、(音楽の勉強するうえで、しかたがなく)「すごい」とおもうことはあったけど、心の底から、「すげえ」とおもうことは、無かった。ピアノ作品も、目標になることは、

あっても、「惚れてしまう」、ことは、ついぞ、この間まで、無かった。でも、忘れもしない、去年の11月、ベートーヴェンのシンフォニーが無性に聴きたくなって、聴いて、号泣してしまった。感動して。いや、その、心の底から「すげえ。」とおもって。勉強の結果として、ベートーヴェンの「すごさ」

には、うすうす気がついていた。その気づいたことに、すこし興奮して人に話したりもした。でも、去年の11月、その予想が、「すごさ」の仕組みについての予想が、考えたことの組み合わせの結果ではなく、肉感として迫ってきた。自分が音楽について、「惚れる」とは別方向から、圧倒されたことは、

初めてだった。感動して、号泣した。とても不思議な体験だった。

作曲家として歴史に名が残る、ということはすごいことだけど、さらにそこから、さらに何人かの作曲家は、作曲の歴史を切り拓いた、というに値するひともいる。僕は、ベートーヴェンも間違いなくその一人だとおもっている。

ベートーヴェンは、押しても引いてもどうにも動かない壁を、どうにかしようとして、本当にどうにかしてしまった。無理やり、針より細い穴をあけ、突破し、展開し、誰も見たことがない新しい地平を切り開いてしまった。彼は美しい旋律を書く天才でもあったが、僕は彼が、美しい旋律をいかに美しく編んでいくか、ということより、その壁との格闘のほうがよっぽど大事だったのではなか、と、最近になって思う 。

教科書では、ベートーヴェンは耳の障害を克服して、というエピソードとともに、扱われることが多いように思う。僕はそんな扱われ方があまり好きではなかった。作曲の方法論上の壁との格闘の、事をおもうにつけ。いや、まてよ、それを思うと、耳の障害のエピソードは関係するのか。いや、全く関係なく、

作曲する、行為の、その純粋性の中での、格闘があるんじゃないか?いや、だからこそ、関係する、といえるのかもしれない。

ベートーヴェンの人生における苦悩と、作曲するという行為の中でのある種の戦いといっても差し支えないものとが、関係するか関係しないか、という話だった。安易に関連させて考えるのは、大切な何かを見落としてしまうことにつながるのではないか、ということだ思う。関連はする。しかし「君が応援してくれたから、決断できた」と「安易に」判断できるような安易さで、関連するものでは、決してないと思う。

ベートーヴェンの人生には、大変な苦悩があった。そして、それはそれとして、ベートーヴェンは作曲するという行為の中で、ある種の戦いといっても差し支えないものがあった。そして、彼はとんでもない傑作群を生み出した。どちらも彼というパーソナリティーから決して切り離して考えることのできない、彼自身の人生である。

ベートーヴェンの人生には、彼自身のありったけの心がこもっている。そういって差し支えない。

もちろん、彼も人間である。心がこもらなかった部分も、多少なりとも、いや、もしかしたら、多数あるだろう。しかし、彼の心がこもったものが、歴史を超えて、時空を超えて、私たちに届いてくるのではないか。