友へ。

「少なくとも私は文学に愛されていると信じたいです。というのも思いあがりか。」という言葉は切実だった。かつて自分も、音楽から愛されたい、必要とされたい、自分の演奏という行為に需要があってほしいと、ときには醜い欲望のように思っていた。

地方のそれなりなコンクールの入賞経験はあり、芸大ピアノ科を受験するもは橋にも棒にも引っかからずお門違いの不合格をするも、その数年後にはピアノコンチェルトのソリストの経験もあり、新作初演の経験もあり、その後も、日本を代表する作曲家プロデュースの公演のオーディション合格もあり、昨年は東京都内でピアノソロをするという、田舎者のおのぼりさん的自尊心を満たしてくれるようなこともあり、ピアノ伴奏者ということではプロ奏者との共演(たとえそれが地方の街のピアノ教室の発表会のゲスト出演といったステージであろうと)も複数回ある自分だ。しかし、パソコンで焼かない自分の演奏のCD(裏が緑色じゃない)が店頭に並ぶことは、10万馬券のレースを当てるくらいなものだ、というのは、いくらか希望的観測か、と思う。41歳の今となっては更に。

この震災で、仕事の主なものは当番で給水作業の補助、散乱した職場の整理、新学期準備、等で、授業、部活、生徒指導が中心の生活からは一変した状態にある。つまり、職場には生徒がいない。もしかして不謹慎におもわれるかもしれないが、普段と違って、一日90分くらい、教材研究できる時間が、毎日、規則正しく確保しやすい。自分はいま、一日に確実に90分〜は、ピアノに向かって、ピアノを練習している。それがなんと、数日つづいている。

その90分の中身は、こうだ。まず全調スケール。12の長調と、12の短調の、24種類の音階練習をする。次にショパンエチュード作品10−4をさらう。右手だけ、左でだけ、付点のリズム、付点のリズムの逆、三連符のリズムを二種類、fでスタッカートとレガート、pでスタッカートとレガート。次にバッハの平均率のフーガをさらう。二巻の変ホ長調の。そして、ベートーヴェンの熱情の一楽章をさらう。ベートーヴェンの熱情ではA.O.先生のレッスンでのタッチのことを、ものすごく意識する。

41歳の今、自分に入賞に可能性のある、というか出場可能なコンクールすら、少ないというか、ほとんどない。ピアノコンチェルトの話も、6年前、地元の社会人のサークルの吹奏楽団(アマチュア)との共演が最後で、それ以来、ないし、予定もない。新作初演の依頼もない。プロ奏者から伴奏の話もない。予定もない。

でも、まとまった時間ができると、練習する自分が、なんだかなあ。それも律儀?に音階練習から。何のために?好きな曲の好きな部分とかだけでも、事足りる?のに。ははは。ほほほ。ふぉっふぉっふぉ。

俺は今日思ったよ。これは苔だと。カビだと。「世界にひとつだけの花」どころではない。とんでもない。「世界の隙間とかにありまくる苔・カビ」である。俺は、苔である。もしくはカビである。

また、逆の視点からも、いえる。

ちょっとまとまった、落ち着いた時間ができると、そこに、苔が生すように、カビが生えるように、全調スケールの音階練習とか無意味とも無駄ともつかない律儀さを伴ったものが進入してくる。

俺は音楽に愛されるかどうか、という関係を脱せるかもしれない。かつては花を目指した。もしくはどれだけ実をつけることができるか、を価値の至上のものとして、教えを受けた。

しかし、生態系や食物連鎖は、花や実だけで成り立つものではない。いろんなものが光合成をする。光合成をしなくても、肥沃な土壌のもとになる。いや、花や作物を腐らせる菌かもしれない。それも、大きくは連鎖の流れのひとつである。

ステージにあがる、ということでは何の予定もない俺が、趣味的にといってもいいピアノに向かうとき、律儀に音階練習をするのは、ああ、これは苔だ、もしくはカビだ、ああ、菌かも、いや細菌か?粘菌かとおもって、なんだか可笑しくなった。そして、苔やカビや菌や細菌や粘菌から変な花が咲くことがあるかもしれないじゃないか、と、夢みることを、いったいだれが否定できよう。(あほか、とは思われると思うけど)

今日こんなことを思ったおれは「少なくとも私は文学に愛されていると信じたいです。というのも思いあがりか。」という切実さがかなりまぶしい。そしてその切実さに敬意を表したい。きっと後の画狂老人卍こと、葛飾北斎とかは、ずっと切実だったんだとおもう。

いや、ほんの少し前のかつても、ちょっと時間があると、全調スケールから練習したぜよ。でも、それは未定の予定を前提としたものだった。いつか、花を、いつか実を、という意識が強かった。

(また、花だの実だのばりばり意識仕出すかも、しれないけど。俺。)

しかし、花にならない、実にならない、菌類や細菌類も、また、味があるのかと、震災のおかげでできた時間の一部を享受する自分はふと思ったわけであるでよ。

北斎や、きみが、花や実になることを考えていたからのみで、切実であるでは、ないんだけど。