野球少年にとっての田中投手のような

仙台フィル 復興定期室内楽シリーズより、以下のコンサートを聴く。

2011年6月2日(木)
午後6時30分開演(午後6時開場)
出演 ヴァイオリン:渋谷 由美子 
    チェンバロ :梅津  樹子
     合奏    :仙台フィルメンバーと仙台ゆかりの演奏家による合奏団

  ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集”四季”

 バロック音楽に対する「つまらない」というイメージがあるとしたらそれはいったいどこからくるのだろうか。というのはなんというか自分がそうだったのだが、たしかにやはりロマン派の味付けとヴィヴァルディは異なる。が、ライヴで聴くヴィヴァルディの室内楽はもう最高に面白かった。一緒に連れて行った、顧問をしている吹奏楽部の部員のコントラバスの男の子は、吹奏楽の合奏を離れると楽器をエレキベースに持ち替えバンド活動に勤しむやつなのだが、この日のヴィヴァルディには目がくぎ付けだった。もはやこれはバンドのライヴである。

 たとえば、第一番「春」の2楽章。ソロのヴァイオリンに対し、ヴィオラが音型、リズムは単純なものの、その旋律の方向を決定付けるコアのような、重要な役割を果たしていることがわかるし、またそのことが見事な、アンサンブルであった。そういうアンサンブルの妙味が各所にちりばめられていることのわかる、演奏であった。

 それからアインザッツ。( http://www.alpha-net.ne.jp/users2/n412493/classic/einsatz.html ←アインザッツって何かって、この記事とか良くかけてるとおもう。)

 金聖響シエナウインドオーケストラを振ってのアルフレット・リードのアルメニアン・ダンスパート?の冒頭とか「うわー、こんなんで出るの?」とものすごくスリリングかつ「プロだなあ」かつ、「ザッツがあうとかあわないとかもはやそういう基本的なレヴェルに気を遣うのではなく、『表現としてどうか』なんだこれは。」とか驚嘆させられたことがある。

 話には、チョン・ミョンフンの指揮でそういうのを、人づてに聞いたこともある。

 この演奏会のソロヴァイオリンの出すザッツも、そういう領域のもので、音楽としてとても説得力があり、くるものがあった。やはり「あう、あわない」という基本的なレヴェルのことではなく、音楽がどこからやってくるのか、それはもう天上にあるものを、プレーヤーが、これしかない、本当に一点のタイミング、というより、なんというか「機」があって、もうその音楽の質の多くはその、一点の「機」をつかまえることができるかどうか、ということにかかっている、その尊さを感じさせられた。

 そして、また、合奏団がそれに応える。プロフェッショナルとしての矜持を持って。余計な力はなく、一点の集中力で。音楽を奏でる喜びをもって。見事。

 四季の全12楽章は、途中拍手や休憩などで中断することなく、一気に演奏され、客席も、自然にその生き生きとしたアンサンブルに集中させられた。

 宮城の野球少年は、楽天イーグルスや、田中投手、岩隈投手を、どんな憧れの気持ちの、まなざしを向けるのだろうか。

 自分にとって、自分の10代の頃から、宮城フィル(現・仙台フィル)は、憧れのプロオーケストラであった。当時、若くしてコンサートマスターに迎えられた渋谷由美子氏は、長い間、宮城フィル、仙台フィルコンサートマスターとして、オーケストラの活動を引っ張ってきた。

 その後、仙台フィルコンサートマスターは後進に譲られ、現在は後、何代目かになる。が、この日、本当に久しぶりに、由美子先生の出すザッツをみて、一線級の現役でありつづけているその演奏を聞いて、本当に感動した。

 自分も、年月が経って10代のクラシックファンではなくなり、大人として音楽に携わるようになった。具体的には、そんな機会は少ないけれど、地方のコンクールで、若いヴァイオリン奏者の審査も、経験するようになった。

 最近の若いひとの、楽器を演奏する、メカニックの処理の精度は驚くべきものがある。しかし、それが人を感動させるかは別問題である。こんなことは昔からいわれているけど、自分も繰り返し言うことにする。

 この日の由美子先生のソロは、音楽的に本当に積極的なのだが、押し付けがましいところは一切ない。音楽を志す若い人たちには、こういう演奏に生で触れてほしいと思う。

 プログラムの演奏が終え、由美子先生がマイクを手に取る。被災地にボランティアで演奏をしてきたことの話があり、アンコールとして、震災で亡くなった方への鎮魂と生き残った私たちのこれからの未来に向けて、J・S・バッハの「G線上のアリア」が演奏された。