まばたきをする冬の翼よ

下の句。



自分が意識の中で明確に音楽を志すようになった中学入学後から
高校3年生までの6年間、師事したピアノの先生は、
自分にフレージングを行う、ということがあるならば、その先生によって
もたらされたものが、根幹にある。根幹にあってなおかつ、
いまでも、すごく、大きい。



その先生は本当に自分に目をかけてくれた。その先生の伝をたどって、
安部和子先生の、レッスンを受けたことも、忘れがたい。
安部先生のお宅は、歴史を感じさせるしかし素敵な素晴らしいお家で、
自分がアップルティーを生まれて初めていただいたのは、
レッスンの合間に、安部先生がいれてくださったものであった。



高校3年、地方でクラシックのピアノの登竜門といわれる
コンクールにも入賞するが、
現役での大学進学がかなわなかったこともあって、
師匠を変えることを
決断する。



80年代の終わり、東北の地方で、数年を越えるピアノの師事があって、
音楽の専攻を止めるわけでもなく、門下を去ることは
大事(おおごと)だった。



その後、先生から年賀状をいただくも、
(普通大学に進路希望を変更して頑張ります、とピアノをやめた)
自分の方から返事をすることなく、その先生との
関係は途絶えた。



その先生の訃報を知ったのは、しばらくたってからだった。
仏前に手を合わせにいくことは、かなわなかった。



反省多数でも後悔しない人生を信条とする身にあって、
数少ない、消えない想いが、ここにある。



先日、また違った訃報が、自分のもとにもたらされた。



その先生のレッスンを一度だけ受けたことがある。



高校3年生のとき、希望する大学と、普段師事する先生とは、
ピアノ流派みたいなものがあるなら、系統が違っていた。



なので、まじめな話、自分の祖母の姪の知り合いの経営している
アパートの住人の知り合いの、みたいな伝をたどって、
一度だけレッスンをみていただける約束を取り付けた。



自分のいまとなっては浅はかだとおもえる
夢や希望にとっては
結果は惨憺たるものだった。



用意していったレッスン代すらうけとってもらえなかった。



「これじゃ落ちるわね」
「これがそうねえ高校一年か、中学3年ならじゃあ、
来週からきなさいってなるかもしれないけど」
「あなたお勉強はどうなの?」
「普通の大学に進学なすったら?」
「仙台で先生紹介してあげるわよ」っていわれて、
帰りの新幹線で、ずっと泣きながら帰ってきた。



涙目というのではなく、まじめに、しくしく嗚咽をあげながら、
ずーっと泣いて、帰ってきた。



その先生の訃報がなくなられた次の日に私のもとに届いた。



日本のクラシック界においてそれぞれの立場や規模は異なるが、
多大な貢献をされたお二人の音楽家・教師・そしてピアニストである。



訃報をネットで検索しても、でてこない、ひっそりとした死であった。



心からご冥福をお祈りします。



そして訃報が届いたり届かなかったり、
かつての自分は、何十年後の自分が
こんな形になるとはおもってもいないけれども、
自分はでも、いまでもはっきりと音楽を志している。



定期的にレッスンに通うという意味では、
35年前に週一で通い始めてから、
4人目となる先生との出会いがあって。
(年二回、のレッスンではあるが)。



自分がかつて大学を去って就職してから6年間住んでいた、
気仙沼市西みなと町は、西みなと町ごと、消滅している。今のところ。


この車を止めたところと、見えている駅のホームの間に、
気仙沼市西みなと町7ステーションサイドTAKATORIハイツ
があった。

ちょっと引いたところから撮影。2012年3月20日現在
何もない。かつてここにあったアパートの1室で、
正岡豊の歌集「四月の魚」を読んだ。
夜な夜な歌人枡野浩一のインターネットの掲示板で
くだを巻いていた。1999年頃。

かつて玄関だったあたりから海のほうをみると
この位置に船がきてる。

鹿折唐桑駅のホームとかつてあったアパートの
間の小道から撮影。

駅のホームと、アパートのベランダは会話ができるくらいの
距離だった。

この無人駅から青春18切符などをつかったりして、
新宿ロフトプラスワンの枡野浩一トークライブを
見に行ったりしていた。現在、駅舎は津波と市街火災で壊滅。
鉄道の復旧する気配もない。

駅のホームからの景色はかつて住んでいたアパートからの
景色でもある。ほぼ、何も変わらない印象。

駅舎があった場所から自分が住んでいた場所を見る。

駅舎のあった場所を写す。

この写真の右端のほうに、気仙沼の自分の所を
たずねてくれた友人らといった大政寿司があった場所である。

実母の実家である南三陸町にある家屋も、先日、
彼岸の墓参りの降り、寄ってみたら、
きれいに取り壊されていた。

http://twilog.org/tadashinichi/date-110505

自分には出会いがあって結婚して三人の男の子に恵まれた。
みんなきらきらしている。



鹿折唐桑駅の目の前まで流されてきた船舶に、
「船触ろう!」と、走りだす、子どもたち。



海も、空も、どこまでも透き通るようにきれいである。
水平線も。



教え子は、それぞれその道を進んでいく決意をし、
何かがあると、自分の所に報告をしてくれる卒業生も、いる。



気仙沼、そして南三陸の3月は、まだ雪がちらつく。



そして、みんな、それぞれの今を、それぞれに生きている。



 夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ
 (正岡豊)