宮下奈都 著「羊と鋼の森」(文藝春秋)を読む(ネタバレありのつもりはないけど)

歌人(57577の短歌を作るひと)の枡野浩一は短歌形式以外にしたほうが(つまり、映像、音楽、など)おもしろいものは、短歌にすべきではない、という。極端な意見だなあとおもうかもしれないけれども、その意見には考えさせられるものがある。

羊と鋼の森」を読み進めながら、これ、もしかしてずいぶん丹念で精緻な取材を元にしてるんではなかろうか、ということをヒシヒシと感じさせられた。そして、その丹念さ、と精緻さは、そのままこの小説の美点となっている。丹念さと、精緻さを、小説の美点としたのは、ひとえに、この作者の技量といえる。なぜなら一つに、これは小説であり、物語であり、ノンフィクションではないからである。それだけの取材をしたのなら、もしかしてノンフィクションとして提示したほうがより、読者に届くということも、考えられたかもしれない。しかしそこは小説家としての、物語を紡ぐものとしてのプライドといったらいいのか、習性といったらいいのか、そんな熱やエネルギーがあったのだろう。そしてそれは見事に成功していると、自分は感じた。

小説だから嘘を盛り込んでもいいし、超常現象を起こしてもいい。ワープしてもいいし、タイムマシンで時空を飛び越えたっていい。そうしたものいいは言い過ぎだけど、物語を推し進める起爆材として、主要登場人物を殺したり、悲恋のエピソードを盛り込んだり、ということはよくある。それか時にアクロバティックなほどにうまいのが村上春樹だったりするわけで、近年の村上春樹の話題作は物語を推し進める(読者にページをめくらせる)仕掛けでしかないんじゃないの、と思うこともあるくらい。

羊と鋼の森」には、物語を物語たらしめている要素が、本当に必要最小限にしかない。表現したいとおもう主題があって、その主題に深く関わる取材対象があったとき、それをノンフィクションではなく、物語として提示することの難しさ。それがノンフィクションっぽい小説ではなく、ちゃんと物語としての、最小限の仕掛けやファンタジー(ファンタジー的な要素はこの物語にはほぼ100パーセントでてこないけど)に収まっている。そのぎりぎりさ。こんなにけれんみのない小説なのに、でも小説らしく、描写は、「盛って」描かれていたりする。「盛る」という言葉のマイナス面が、この小説には申し訳ないほど、見事な微量さ、分量の適切さ、だった。だから(それでも)自分は、この話にのめり込み、少なくても三カ所で、あふれでる涙を押さえきれなかった。

そして、「羊と鋼の森」の登場人物のすべてのキャラクターを、いつでも、小説を読んでいるだけで、読んだ後も、鮮明に自分の脳内に再現できる。たとえば田中芳樹銀河英雄伝説を読んでるときとか、キングダムなんか漫画にもかかわらず、登場人物をメモ用紙に整理整頓しないとわけがわからなくなるのに。

大崎善生が、若くしてなくなった天才棋士をノンフィクションにしたとき、作者の思いいれが強すぎで、取材で伝聞したことと、作者が実際に体験したことの記述があやふやになっている、それがノンフィクションとしての体裁に傷をつけてる印象を与えるのが、残念だ、と批判されたことがあった。

宮下は、この小説において、その大崎が受けた批判に応えるかのごとく、ノンフィクションではなく、小説の立場から、見事に「だったら」の一つの形を、提示したとおもう。

現在直木賞候補にノミネートされている。とるかなあ。小説の構成や技法として目新しいことがない、ということが仇になりませんように。職人の手によるいぶし銀の佳作ではないかと。賞にもふさわしく、俺は思う。選考会は今月19日という話です。

クラシック音楽がもっと裾野からてっぺんまで活性化してほしいとおもう自分は、そういう理由からも、この小説が直木賞になってほしいとも思う。