ドビュッシー、ライヒ、湯浅

 現代音楽をキリスト教文化圏の芸術音楽の流れを汲む20世紀音楽と大雑把に捉えることとする。自分の現代音楽への興味の発端は何か。それは中学2年生の時のピアノのレッスンで指定された曲であるドビュッシーの「アラベスク1番2番」が、まず確実なひとつである。全音楽譜出版でアラベスクが収められてる楽譜集には、同時にドビュッシーの「ピアノの為に」も収められていた。その「二つのアラベスク」と、「ピアノの為に」は難易度的にやや、飛躍があるのではないかとおもわれる組み合わせである。しかし、当時の先生と自分のノリと勢いで、「アラベスク2番」を発表会のステージで演奏したのち、本当にひいひい言いながらではあるが、中学校3年生のほぼ半年〜一年近く、「ピアノの為に」の楽譜と格闘するように取り組むことになった。そして当時、その「ピアノの為に」をまともに演奏するレヴェルには達しなかった自分ではあるが、いつしかドビュッシーのピアノ音楽の虜になっていた。

 高校2年生のピアノの発表会ではドビュッシーの「ベルガマスク組曲」全曲に挑み、ステージに上げることができた。話は飛ぶ。高校3年生の夏にはスティーブ・ライヒの音楽を知り、衝撃を受け、家にCDを再生する機器がなかったにかかわらず、スティーブ・ライヒの初期作品集のCDを入手した。これが自分が一番最初に買ったCDである。絶対そうだ。だってCDプレーヤーがなくて、「カセットテープにダビングしてほしい」と理由を言ってCDを聴ける環境にある同級生にダビングをお願いしたくらいだから(それまで音楽を聴くメインの媒体はレコードだった)。1987年の夏のことである。

 1987年。もうひとつ。確かこの年のことだったと思う。作曲家の湯浅譲二本人が宮城県仙台市戦災復興記念館に実際に来て(大げさないいまわしさせてください)レクチャーコンサートを行った。270席のこじんまりとした、今となっては古ぼけた感じといってもいいだろう、そのホールに、客は半分にも満たない、その場所で、自分は湯浅本人の解説つきで、「ホワイトノイズによるイコン」や「ヴォイセス・カミング」を聴いた。衝撃的な体験だった。地元の新聞記者らしきひとからインタビューをうけた。「これが音楽といえるのだろうか疑問である」と今思うとなんとつまらない感想を、とおもうような感想を述べた。

 なぜ、湯浅譲二本人が仙台にきたのか。本間先生ときっと関係があったとおもう。今度プロジェクトのミーティングで聞いてきます。その高校生のインタビューとして自分の言葉が載った新聞記事は大学進学後に、大学の学生が掲示板的な利用として書き込みをするノートで見つけた。「ヴォイセス・カミング」のレコードも、大学の演習室でみつけて、繰り返し聞いた。

 そして、なんと湯浅の「ヴォイセス・カミング」が収録されたCDがあったのだ!そのブログをトラックバックしてみます。承認されればトラックバックされるそうです。自分にとって初めてのトラックバックなので緊張します。べつに緊張する必要も無いのかもしれないのだが。

追記:
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ってなった。なんでだかわからん。

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