ダイアル回して手を止めたときとか。
いまダイアル式の電話で現役のなんてあるのか?
故・本間雅夫先生の言葉で忘れられないものに、「音楽は国境を本当に越えるのか」「理解とはなにか、それは『善意の誤解』に過ぎないのではないか」(表記や具体的な口調、言い回しなどは曖昧です)というものがある。今回書くことはそれに直接関連することではないけれど、そういえば本間先生は、そんなことをいっていた確かに、と思ったりした。
さて。
悲しいとか、うれしいとか、腹が立つとか、楽しいとか、感情があったとしたら、その感情は、当然のことながら発露されることを欲している。だから、当たり前の話なのだが、誰かが誰かの感情を受け止めることは大事だと思う。共感や理解は難しいとしても、誰かが、誰かに対して、「ああ、あなたはそう感じたのですね。」の一言は安全な水や空気のように重要である。
これって、カウンセリングの初歩じゃない?
うん、まあ。
だけど、画家の古谷利裕のはてなブログで興味深い記事があったので、貼り付けておく。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100617
カウンセリングの「技術」や「場」の蒸留や熟成のその先に、非常に宗教的な何かがあると仮定しよう。しかし、なんというか問題はそっちのベクトルの仮定と結論ではないとおもう。
その逆だ。なんというか。思うのは。
凝縮したりすれば宗教みたいになってしまうものを、うまく噛み砕いて分散して機能させると、人と人とのかかわりの重要な基本パーツになるのではないか、というこれまたある意味あたりまえかもしれない話をメモ的に書いておきたい。
かつて歌人の穂村弘はその短歌が天然からきてるのかそうでないかといったようなことについて(ここかなり端折ってますごめんなさい穂村さん)「棒立ちのポエジー」「一周まわった修辞のリアリティ」という見事なネーミングで語ったことがある。
宗教的なもの、カウンセリングの初歩、について思うとき、思考をぐるぐるっとまわして、もう一度人間と人間の関わりの重要な基本パーツはなんなとかということについて、確認したい。
いや、話は飛んで、たとえば、都市を微分すると建築になり、建築を積分すると都市になるって、ずいぶん、ニューアカいんちきな言い回しだと思うは思いますが、カウンセリングを圧縮すると宗教になり、宗教を解凍するとカウンセリングになるとかそういうことではなくて。
今回の記述の最後に。陰惨な事件の発端には、発露されるべき感情が発露されずにたまってしまったことが少なからず関係してるとおもう。
あの時、そう、「悲しかったんだよね。苦しかったんだよね。」って、誰かが話しをもう少しだけ正面から、受け止めることができれば、よかったのだったって。
過去のそういうことに思いを馳せることは、祈ることに似てると思った。