「音楽史を変えた五つの発明」を読んだりしてた。そういえば。

ベートーヴェン。この日出演した仙台フィルファゴット奏者の水野さんのツイッターでのツイートが興味深い。

仙台フィルファゴット奏者 水野さんのツイッターはこちらから。
http://twitter.com/#!/kazbs

>リハーサルの録音聴く限り、熱いベト2になりそうな。オーバーブロー、上ずりには注意しつつ、下野ワールドを楽しみたい。
(水野さんのツイートより)

オーバーブローを心配するようなリハーサルは、多分功を奏したのではないか。仰られるとおりの、熱のこもったべト2でした。感動!名演!

いろんなところで最近ちょくちょく書いたり言ったりしてるのだが、自分は不惑を迎えて、ようやく、といっていいのか、ベートーヴェンの音楽にやられている。ベートーヴェンのその音楽の、ものすごさ、を、いままでにないくらいひしひし感じ始めている。10代には、歴史的知識としてのベートーヴェン以上に、感受できなかったことが、なんだか、肉感的に迫りだした。最近ではカラヤンベルリンフィルの7番のシンフォニーを聴いて感動して泣いてしまったりなど。

交響曲を、では、1番から聞き込もうと決心し、1番、2番と聴き進むが、2番って、難解じゃないですか?どうですか?

難解ってどういうことかというと、2番の1楽章は長い冒頭は思い浮かぶものの、肝心の第1主題が思い出せない。2楽章のメロディーを思い出そうとすると、1番とか5番とかがでてきてしまう。3楽章も。4楽章は、この演奏会での演奏を聴いてようやく入ってきた。

この日の指揮者であるマエストロ下野はステージトークで「日本で二番目にマニアックな指揮者の下野です。自分がプログラムを選んでいいといわれて、この2番を選びました」といっていたり、また、水野さんのツイートからの引用になりますが、

>昨日の終演後の男性楽屋で「良い曲だね、ベートーヴェンの2番」の声が。こういう言葉が出るのは珍しいこと。マエストロ下野に感謝。
(水野さんのツイートより)

客席にいた一聴衆に過ぎない自分にそれをいうだけのものがあるのか、生意気なんですが、「なるほどね」と思う。

なんか、特に1楽章など、現代建築みたいな曲に思います、ベト2。構造も計算されているし、それを支える論理もしっかりしてる。しかし、出来上がってくるものが、凄くモダンなものがあると。交響曲の1番から2番への、技法上のいろいろな発展は、それなりに注意深くならないと、ちょっと聴いただけでは聞き逃してしまう差異なのかもしれないが、交響曲第2番の、演奏者ではなく、聴衆として鑑賞したときの、微妙なメロディーの覚えにくさと、しかし動機(旋律の小さな区切り)の有機的な関連など、ベートーヴェンらしさの萌芽が一気に熟成してることが感じられる。

さらに、水野さんのツイートから、いくつか引用させていただく。

>一回目はゲネプロもない中での緊張状態、二回目はインターバルが40分位しかない肉体的疲労との戦いの本番、疲れたのは確か。でも楽しかった!否定的に見られた(聴かれた)らキリがないけど。
>聴いて下さったお客様の評価は分かれるでしょう。現実あれこれありましたし。評論家的、審査員的、減点中心な聴き方だったらNG出ても…

自分にとって難解なベト2の魅力になんとか迫りたい一心から、自分はポケットスコアを目で追いながらベト2を聴いたわけである。そういう聴き方は或いは評論家的、審査員的、減点中心的な聴き方につながるとみられるかもしれない。しかし、いやいやどうして!

これにNG出すなら近年の定期の(もちろん震災前ですよ)、あの回の、○日目とか、どうなの、とかあったし、演奏としては破綻のないものの、ソリストの音楽性みたいなのが自分はたぶん、どうしても生理的に嫌で、変な気分を抱えて、帰ってきたこともあった。

もちろん近年の定期の自分にとって最もすばらしかったものも上げておく。河村尚子ソリストに迎えたシューマンのピアノ協奏曲は指揮の山下さんも、オケの仙台フィルも、そしてもちろんソリストも本当にすばらしかった!

でもいろいろあるのが、ライヴの、生演奏の醍醐味じゃないでしょうか。

今回のベト2は、下野さんの棒、解釈、思いっきりのよさ、それでいながら丁寧さ、そして、仙台フィルのアンサンブルの妙と、それらが一体化した熱が伝わってきた。

スコア見ながら聴いてて、現実あったあれこれを指摘できない自分の、ソルフェージュ能力なんてたかが知れてますが。音色とか音程とか微妙なタイミングのずれとか、あったのでしょうか?いや、真面目にわかりませんでしたし、仮にあったとしても、それをカヴァーしてお釣りがくるほどの、指揮もオケも、さすがプロといえる、表現のクオリティーがあったと思う。復興定期を聴いて今夜が二度目だが、ゲネプロなどのスケジューリングをはじめ、さまざまな環境や条件も、思わしくないだろうに、プロフェッショナルであることの底力を、たとえば震災前の定期での演奏以上に、感動的に感じさせられている。

最後に。ではどんな聴き方がNGを出すという聴き方につながるのか。(そんな聴き方なんて想像したり仮定したりしたくはないけど)。それは、ひとえに録音文化がもたらした功罪の、罪に起因するとおもう。演奏家の演奏技術が飛躍的に向上し、また録音文化も熟成し、ライヴでもとめられる完成度と録音物に求められる完成度の浸透圧に差がなくなった結果、確かに「古き良き名演」という言い方を、よく耳にするようになった。

河村尚子のクオリティーの高さの側面のひとつは、この熟成した録音文化の時代にあって、それに耐えうる演奏の精度の高さに加え、まるでフジコへミングに匹敵するライヴ感が、演奏にあること、と自分はおもう。

「自分はこんなにさらってきました、いつでもCDみたいに演奏できます。」みたいな演奏なんて、家でCDを聴いてることで、事足りるのである。そんな演奏をわざわざホールに聴きに行きたくない。いろいろやっちゃうことの可能性とのうらはらに、ライヴの面白さがある。そして、そこで何かが新たに立ち現れてくる奇跡がある。

さらにいうなら、今回のベト2にNGをだすひとは、自分が生理的に嫌だとおもったソリストの定期の会を、すばらしいとか、言うのだろう。でも、そういう評価の差も、あり、なんじゃないか。わが街にプロオケがある!なんて幸せなんだろう。仙台フィルのみなさんに、(演奏家だけじゃなく支えているいろんな人の有形無形の力も含めて、)感謝するとともに、今後も沢山のすばらしい演奏に出会えることよう、こころから祈りつづけたい。

音楽史を変えた五つの発明

音楽史を変えた五つの発明