「牡丹と薔薇 第8号」が届く。

http://d.hatena.ne.jp/vanpert/20111023

短歌を担当する二人とイラスト担当の一人の三人のユニットによるフリーペーパー形式の短歌誌の最新号が届いた。

それぞれの短歌連作から目に留まったものを一首ずつ。

何回も呼ばれる名前 いまここに君がいるってことも分かるの 鈴木秀子

こうべたれつつ稲穂は揺れてもしかして泣いているなら声を上げてよ 塩戸蝶子

風媒社からかつて発行されていた「短歌ヴァーサス」は創刊号から休刊の号まで全巻本棚にある。2003年から2007年。自分は短歌に興味があり、インターネットで自作短歌の投稿などもし、荻原裕幸穂村弘、そして、正岡豊の言説に酔いしれた。

自分が試しに詠んでみようとおもったころ、57577の定型を少々外れてもいいのではという無意識・有意識が確かにあったが、短歌に興味をもって約10年、たしかに、定型、というものの、なんというか、ありきたりな言葉でいえば、「重み」が、10年前よりも、確かに感じるようになっていて、自分自身に苦笑する。

短歌誌やネットで出会った言説に、「57577という歌の形が、戦争や大災害などの歴史に呼応して、その7が、8になったり、6になったりすることに衝撃を受けたい」(表記・内容、あいまいで申し訳ない)ということに、実感としてではなく、話として圧倒されたことがある。

主宰の塩戸は、言う。

何度も、になるけど、しゃべれないし歌えないし、踊れないから短歌なんです。

では、と、俺はおもう。それは散文でもなく、一行詩でもなく、俳句でもなく川柳でもなく、現代詩でも、ソネットでも、コピーでもリードでも、はみ出しコーナーでも、ご教訓カレンダーでもなく短歌なんだね。と。

牡丹と薔薇」は続いて欲しいし、俺は短歌が読みたい。

最新号の第8号は、1震災後であること、そして2関係性というその2点がうっすら(もしくははっきり)背景にある、偶然なのか1980年代生まれの同年代の表現者たちのユニット(短歌+短歌+画)による、佳品であると思った。

その二人の短歌もそして、画も、まったく異なる個性だが、そのどれがかけてもこの短歌誌は成り立たないだろう。その点はとてもユニークだとおもう。

主宰のウエブ(はてな)にある、メールアドレスから、送料の実費のみ負担で入手ができます。

また、都内の数箇所ではフリーペーパーとして配布されます。出会ったらぜひ、手に。