最近、受けたレッスンと、見た世界仰天ニュース

世界仰天ニュースの11月2日放映の会は身につまされる話だった。

http://www.ntv.co.jp/gyoten/oa/111102/02.html

 この話の類型は、クラシック音楽においてプロフェッショナルな器楽の演奏家を志す過程にごろごろある、と思う。実際、自分が耳にした、というか自分に向けられた相談の言葉に「(こどもを演奏家にするために)全財産をつぎ込んでもいい、家を売ってもいい」というものもある。(勤務先職場で、ではない。)。数年前の話。表記や細かい言い回しなどあいまいだが、記憶をたどれば。

 自分は音楽を志す延長で現在の職を得たつもりだったので、こういった類の話と自分は、違う、というおぼろげな捉えをしていた。

 話は飛ぶ。現在も自分は機会があれば、演奏の実技のレッスンを受け、コンクールに挑戦し、落選したり、たまに予選を通過したり、その関連で入賞者演奏会のステージに立ったりするが、コンクールをめぐる状況もコンテスタントに世知辛い(参加諸費用が支給されないのはあたりまえだとしても、入賞賞金がほとんど出ない、入賞者演奏会にチケットノルマがある、など)ものほど入賞しやすかったりするもので、結局は、様々な意味で、いや、そして同時に、単純な意味で、コスト的には出費のオンパレードになる。コンクールの入賞歴の獲得方法の実際は、そのほとんどは、現金を出費して買うような話(しかも、購入申し込みをして、支払い済みでも、対価がくるか不確定で、連続落選しても、返金なし)であるといったとき、いったい誰が明確に否定できようか。

 ということを、強調方向のデフォルメを施した、よい話の例示になっていた、この回の世界仰天ニュースだった。

 おととし、「ああ、自分がピアノを習うということの最終地点は、この人でいい」と思う先生と出会った。その後年2回のレッスンの機会が持てることになり、ついこの間、4回目のレッスンを受けた。

 1回目、もっていった曲はリストのバラード第2番。奏法を根本から見直すものとなる。充実感がほとばしった。

 2回目、もっていった曲はショパン舟歌。レッスンそのものが音楽の喜びに満ちるようなレッスンだった。自分がピアノをつづけてきたことの、おとしまえのつけどころがあるとしたら、この先生とのレッスンこそふさわしい、と思った。

 1回目と2回目は、この先生とのレッスンのほかに、途中10年を超える中断はあるものの、出会って20年を超える師匠との、月1回程度のレッスンも受けていて、である。

 2回目のレッスンを受けた時の曲である、ショパン舟歌を、長年の師匠の門下での演奏会のステージに乗っけて以降、自分の身辺にもいろいろあり、長年の師匠へのレッスンは途絶える。

 年2回の先生との、3回目のレッスン。普段のレッスンも途絶え、曲もさだまらないまま、でも、この先生との数少ないレッスンの機会を逃しては大変なことだ、というおもいから、かなりな準備不足のまま、曲をJ=S=バッハの平均率の第一巻の8番のプレリュードとフーガに定め、みてもらう。「先生にみていただきたいと、本当にこころからおもっているのです」という一念がもたらした、レッスンだった。準備不足のものをレッスンにもっていくのは失礼である。しかし、先生はその準備不足の自分も、きちんと受け止めてくれた。

 震災。

 4回目、レッスンの曲を、J=S=バッハの一巻の10番にするか、ブラームスインテルメッツォにするか、リストのラ・カンパネラにするか、ショパンエチュードにするか、それらの組み合わせでもいいのか(これらは、今後まだ挑戦の機会があるかもしれないコンクールの課題と関連する)、悩んでいたところ、堺ピアノ協会からコンクールの案内が届く。そうか、いままでとは課題が一変するんだ、そうか、ということから、この先生の4回目のレッスン曲目をベートーヴェンピアノソナタ第23番の第1楽章に決める。レッスンまで数週間に迫っていたが、かつて複数回ステージに乗っけたことがあるし、なんとかレッスンで見てもらうには、という思いで準備した。

 結果は、「自分はこの楽器に関してこんなにも、感覚が鈍かったのか、楽器というより音楽に関して。こんなに、何にも考えてないのか。」と少なからずショックを受けるものだった。過去3回のレッスンの教えは当然クリアしてなければならない地点からレッスンは始まる。一回通しで弾いたあと、再度弾くが、そのときはもう、数小節弾く度に自分の腕は払いのけられた。「そうではない。」。

 この先生との出会いは、「人生最大の喜びは、生涯の師と仰げる師との出会いである」ということが本当にあるんだ、ということを、大げさではなく実感できるものである。そして、この出会いは、いままでお世話になってきた師匠の教えもあってこそ、もたらされたものだと思っている。

 そして、可能なら、現在も月に一回以上、長年の師匠のもとにレッスンに通い、そして年に二回の先生に見てもらえるなら、もうこれ以上ない演奏技術の追求の、音楽の追求の機会を得るのだろう、と、今おもう。

 しかし。自分は今学生ではない。養うべき子どもたちもいる。またこの道のプロフェッショナルを宣言し、表現したり、実技の弟子を取ったりして生活しているわけではない。そういう自分の今の生活で、自分の実技のレッスンに掛けるコストとして、それはどうなのか、ということと、11月2日の回の世界仰天ニュースがシンクロをした。

 自分の理想の、しかも実現可能なレッスンの状況は、短期的には、直接的には、自分の家族を幸せにしたり充実させたりするものではない。仮に自分の子どもがいまの自分と同じ年齢の41歳になり、決してその道のプロとして、表現したり弟子を取って教えることによって直接収入を得ているわけではないのにかかわらず、レッスンに対して時間やお金のコストを安からずかけている状況があったとしたら、自分の気持ちは複雑である。そんな息子を自分は心底応援する気持ちになれるだろうか。

 7歳から続けてきたピアノ、41歳になって、自分はどんなこの楽器との向き合い方があるのか。向き合う道を行くための、コストとか考えてしまうようなものなら、向き合うことを破棄しても仕方がないのではないか。さらに言うなら、41歳にもなって「定期的にレッスンにかよう」といった添え木をしなければ維持できない姿勢ならば、そんなにまでして維持された姿勢なんぞ、ハリボテではないのか。

 「最適である」ということは、近道と言い換えられるかもしれない。俺は自信をもって次のセリフを言うことが、難しい。しかし自分は近年、幾度となくこのセリフに励まされた。また後進の進路を一緒に考え、それを検討しなおさなければならない場面で、力強い指針の1つにでもある。

 「近道は裏切る 
オレはずっとそう思っている」
 

湾岸ミッドナイトの荻島シリーズはとてもよくできた話で湾岸ミッドナイト本編の締めくくりのエピソードにふさわしく、また単なるスピンオフ作品というより、新シリーズといったほうがふさわしいだろう湾岸ミッドナイトC1ランナーに直接つながっていく。

湾岸MIDNIGHT(40) (ヤンマガKCスペシャル)

湾岸MIDNIGHT(40) (ヤンマガKCスペシャル)

ここまで書いて、仰天ニュースにでてきた、母と娘について、自分自身に語るように、伝えたいことがまとまりつつある。それはビューティーコンテストにエントリーしてもいいけど、家売らなければならないほどのお金をつぎ込むのは、ちょっとやりすぎだよ、ということである。この話の続きは、もし書く気になったら、日を改めたい。