さっきポストを確認したら牡丹と薔薇9号が入っていた
塩戸蝶子の連作のタイトルは「執着に似る」
二首ひいてみた。
あいしあうきこえあうこえわかちあうささえあうのはこのゆびとゆび
口づけは口唇愛の成れの果て 死化粧の紅引くその日まで
力のこもった連作に思った。前回(8号)の塩戸の連作より、さらに心にぐっとくる。
すべてひらがなで詠まれたのは冒頭の一首。おもしろいとおもう。
死に化粧の一首も、不思議なリアリティがある。自分は亡母と母方の祖母の葬儀で死化粧をみたことがある。
しかし、この二首以外はなんだかピンとこないというか自分の読みの力が足りないのかなあというか、なんでこの歌はこんなリズムなのかこんな喩のか、いろいろ首を傾げながら読むのは楽しかった。作者的には調子がいいのかもしれない。シリーズ第3戦の先発で使い、残り試合では抑えにまわすのも面白いかもしれない。
鈴木秀子の連作のタイトルは「現在完了」
同じく冒頭のと、もう一つ、二首ひいてみる。
黒板に書いた漢字が翌日にうっすら残り続けて暮れる
問題は配られないのに僕にだけ解答用紙ばかりが届く
黒板の一首について。
http://homepage1.nifty.com/mrjsroom/midi/words/loving_y.htm
こういう、中学生が校内合唱コンクールでいかにも歌いそうな(実際歌います)曲があるが、この合唱曲と似たテーマを扱って、短歌と合唱曲でどっちが表現物としてという部分で、争っていいのではないか、とか思う。
ひいたうたの、もう一首のほうについては合唱曲ではなくて短歌のほうに分があるとおもう。というかこのテーマが短歌という形式によって表現される必然のような、力強さを感じる。合唱でも小説でも現代詩でもマンガでも映画でもなく。
マンガや映画にしたほうが面白いものをわざわざ短歌にする必要はない、といったことを自分は枡野浩一の言説から学んだ。
しかし、鈴木の歌に対する安定度は、特徴であろう。もうもう、ごく自然に歌がでてくる。セットアッパー(中継ぎ)として不動である。
そして、塩戸の連作を読んだあと鈴木の連作のなんと読みやすいことか。(逆にいうならひっかかりがないことか)。采配の妙を言わずにはいられない。
短歌同人詩 牡丹と薔薇は二人の歌人とイラスト担当の三人のユニットから成る。今回もイラストと装丁のデザインセンスは絶妙。
次号も愉しみである。
興味のある方はこちらから↓
http://d.hatena.ne.jp/vanpert/20121018