【では教育とはいったいなんなのか?子供が被る被害や利益は、それぞれの担任によって異なるときに、その補償や対策は?えっ?均一な基準、教師をつくる?選ぶ?無理だよ。】

 教育とは教え育むこと。

 何を教えるのか、というと、テクニックとインテリジェンスである、と思います。つまり技術と、知識。

 知識とは、情報の中でも、蓄積されたことが足し算的に積み重なるばかりではなく、掛け算的に、互いに有機的に結合し関連し発展するもの、を、イメージに持ちます。

 技術とは、広義として道具を扱うことであり、「道具の扱い方」、が比喩となるあらゆることが、テクニック、つまり技術に含まれると思います。

 そして、情報は、知識を含みます。情報は文字や記号として紙でも電気信号でも、なんらかの媒体に乗っけて伝達でき、それを、何かの前提に出来たりするように、集団のなかでリファーできるようなものでなければならないと思います。

 で、育むとは。

 技術と情報(知識)を伝達していくことの課程にあらわれ(ることが期待される、なければならない、ることを前提としたい)る、予期される範囲を超えた可能性や発展(もしくは未習熟)をサポートすることだとおもいます。個に応じた課題を追加で、それぞれに示したり、進路先の決定について助言したり、ということが、育むことについての、具体的なもののひとつと捉えています。

 で、担任によって被る被害や利益が異なるとするなら、どうするか、ですか。

 文部科学省は近年(数年前から)、学習指導要領について、それは「最低基準である」と言い出しています。グッド・エキュスキューズだと思いますね。

 なぜ、「とするなら」、というのか。それは、教育についての被害や利益について測っていく基準を、ドットを荒くすれば、なかなか被害や利益の差は見えてこなくなるから、です。日本の教育システムはよくやってるように見えて(思われて)しまうからです。
 
 つまり担任が違うことによって、識字率に変化がでたり、かけ算九九の習得者の割合が変化したり、ということは、いまの現代日本においては、社会的に、取り上げられなければならない事象としては、ないわけです。データの読み方にもなってくると思いますが。

 教育における被害や利益の測るための、物差しやドットの細かさをどこに設定するか、は、担任によって被る被害や利益が異なるときはどうするか、を考える上での、さし当たっての問題になるかとおもいます。

 適正な物差しや精度の細かさにこだわってしまうなら、観測することそのものが、観測対象を変化させてしまうことも起こる気もします。

 比喩が適当ではないかもしれません。

 自分が想定するのは次のようなことです。

 例えば、全国的な規模で、学力状況調査を実施するにあたって、受験者の能力の最大値を測りたいとする心理が無意識(もしくは有意識)に働くとき、そして、事前にその問題を入手したとき、類題を予め授業で扱うかどうか。

 そういう状況をさらに悪化させることを想定するなら、予め知り得た問題をずばり予め与えてしまうか。

 そしてさらに。試験監督中に、試験監督を担当する教師が、机間巡視中に、受験者の問題用紙の選択肢の正答にあたるものを、指で指して伝えるか。

 とくに、この「試験中に試験監督が正答を指さして教える」ことは、「田植え」と呼ばれているらしいです。

 教育の成果をはかる上で「こうなってほしい」といった無意識、有意識の欲望を公平を期すためにに完全に払拭しきれないとき(この公平からしてすでに「無理だよ」気分なのですが)、それでも緻密に教育の成果をはかろうとすることは、海岸線を精緻に見つめ続けたら、1.44次元みたいなのがでてきちゃった、ということに似た感じになるかと。面積は有限なのに、周囲の長さは無限ってどういうこと?といったような。

 自分は、自分の担当する免許教科である音楽について、中学校学習指導要領音楽編、解説、を読んでいると、めまいや吐き気がしてきます。

 あまりにも、ご都合主義、いいわけ、言い逃れ、に満ちている感じがして。

「感受性が育まれたかたどうか」ということをどう、比べるのでしょうか。例えば。決して定量的ではありえないものを。

 でも、かくして、日本の義務教育については、施設を確保し(風雨をしのげて、春夏秋冬使用可能)、設備(黒板やピアノや、コピー機印刷機がある)を確保し、ランニングコストを税金で賄い(電気、ガス、水道)、時間を確保し(教科と授業時数と内容を、学習指導要領によって示す)、教師を確保し(公務員として常勤職として配置し、必要に応じて非常勤職員も配置する)、問題の、その教師については、義務教育においては少なくとも、校長、教頭といった管理職を配置し、学習指導要領に示された内容に基づいて適切に教育活動が行われているかどうかをチェックするシステムにはなっています。

 日本に義務教育は最低どの程度に保証されたものであるのかというと。

 例えば定員に対し120パーセント、つまり20パーセント程度超過した(安全面では問題ないとされる超過であると仮定する)人数が利用している流れるプールを、想定します。そこで、歩いて回る監視員件指導員、が、担任(教科担任)であり、監視台に上って全体を見渡す監視員が、管理職であるところの校長、教頭である、と喩えてみることに、します。

 ここで目指すことの重心は、どうしても(といって差し支えないかとおもいます)、安全に運営していくことと、そのための保守です。

 ・周囲に迷惑をかけている行為がないか
 ・ルールやマナーを守っているか
 ・事故やけががあったとき適切に対応しているか
 ・もしくは、事故やけががあったときに適切に対応できる体制を構築しているか
 ・環境面、衛生面での保守、管理が適切であるか

 ということを、前提、第一、時には業務のほとんど全て、に考えつつ、運用していくのだと思います。

 具体的に教え育むことに関しては、乱暴にいってしまえば、それぞれが「よきにはからう」状態です。理想や報告書の文書などとはうらはらに、現実には。

 もちろん、文科省地方自治体の教育委員会、現場での管理職はチェックしてることにはなってます。

 どの程度のチェックかといったら定員500人の流れるプールに600人の利用者がいて、そこに二人のチェック要員を派遣し、必要があれば報告させる、といった程度のチェック体制ではあるかと思うのです、俺は。

 で、全員にビート版使わせろ、とか使わせるな、とか、事前のラジオ体操は必ずやらせろ、とか、そこは、自由だ、とか、ビート版の図柄は桜に統一しろ、とか、ウニを図柄に書いた人間を厳重注意処分にしろ、とか、ラジオ体操の途中「1、2、3、4」を、ちゃんと声にだして言っているかどうか、口元をチェックしろ、とかそんなお達しが上から降ってくるわけです。

 俺からすると、およそ教え育むことの本質とはかけ離れたお達しをやりたがる、現場から離れた場所にいる人間は、それなりにいる印象があります。(そしてそれはとても厄介なことです。)

 さておき。

 で、その成果はどうなのかと。

 プールを利用する全員が、水に怖がらずプールに入ることができる、ごく一部をのぞいて全員が、水中に潜ることができる、半数以上のほとんどが、足を着かずに、20m程度は泳げる、半分かそれくらいが、基本4泳法のうちの一つ以上を身につけることができる、半分以下のある程度の人間が基本4泳法のすべてを身につけることができる、………、ごくごく一部の限られた人間が、オリンピックの日本代表を目指してもいいレヴェルにたどり着くことができる。

 と、大ざっぱに(ぐるぐるまわって、俺は大ざっぱにしかいえないと思う)いえば、そう喩えることのできる、教育成果はあげていると思います。

 日本の義務教育の限界は、喩えていうなら、このようなものではないか、と自分は感じています。