主に学業成績が優秀である事によってもたらされるだろう万能感(のようなもの)について

 小学校もそうだが中学校以降においては特によりはっきりとそして細やかに数値化され並べられるものである学業成績。そして、定期考査は、自分の中学校時代を振り返るなら例えば、同学年に1クラス40人強の掛ける5学級で200人強の生徒がいて、皆が同じ問題を同じ時間でどれだけ得点できるか、ということの実質の競いあいである。そこで200人中第1位の得点の、昂揚感。ある時期運動の出来ることへの評価が突出して高かったのに対して、そこに持ち込まれた勉強という別軸。しかも公認の軸。たまらない。まあ、でも、今となってはその程度とはいえ。しかしその軸が、あるものにとってのより所になる理由には、まず試験の純粋性みたいなものはあるだろう。それはつまり「カンニングは許されない」ということなどによる、ゲームとしての精度の高さだ。審判の胸先三寸のジャッジの揺れが、後に勝負上の大きな分岐点になったりすることが少ない。そういった状況に置いてミスを僅かにおさえ、高得点を出したりすることは、たとえばブロック崩しといったゲームでノーミスでコンプリートクリアする快感に似ていると思う。さらに試験の高得点や成績の順位は、限定されるローカルの範囲内にとどまる場合があるにせよ、社会的価値として周囲の大人から認知される。極端な話生活態度が悪くてもである。自分の衣食住を保証し、同居する保護者から。そして学校の先生から。進路先から。こうやって考えてみると、どうでしょうかこんな話は。これは、これを読む誰かにとって、「当たり前の話」でしょうか。「とんでもない話」でしょうか。その両方でしょうか。かくして学習成績の高得点がもたらす高揚感は麻薬に似て、そのネガといえる、思ったような成績がとれない時の劣等感は麻薬の禁断症状に似る。学校化社会がもたらすストレスの一端である。宮台真司の著作にそういったことがもっと深くそして広範に論じられていて自分は1990年代むさぼるように読んだ。関連で重松清の「流星ワゴン」も思い出す。同時代感は薄れるが城山三郎の「素直な戦士たち」というのもあった。未読ならば是非とお勧めするかどうか迷うところだが何かのきっかけで手に取ったとき、読み進んでしまうなら是非最後まで。

 さて過大評価によってもたらされたものが全能感にまで育ってしまったら厄介なんだけど、身も蓋もない結論を言えば放っておくしかないと思うそんなものは。そうなりうるのであれば、是非、そこから先に壁にぶち当たっていただき、勝手に挫折感を感じてそこからそれぞれが勝手に対処法をもがきながら見つけ実行していけばいい。他人が示せる処方箋はない。なぜならその人はその人でありその人以外の人ではないから。

 テトリス高得点に社会的価値が外部のシステムによって付与される(ドラえもんの「あやとり世界」 初出:1977年度てれびくん4月号 てんとう虫コミックス15巻に収録。の回も参考になるとおもう)状況で、その外部のシステムの関与がはずされた場合の想像にどれくらい及ぶのか。ドラえもんの「あやとり世界」が学歴・偏差値偏重社会のメタファーになっていると仮定するとしたら、それはどんな点においてか。2000字程度で論述できないか、その論述があまりにも幼稚であるなら致命的ではないのか。どんな人間でも努力をすれば100mを10秒を切って走れる訳ではないことと、50歩100歩とは言わないまでも、20歩100歩くらいには致命的だとおもう。勝手に引きこもるなり絶望するなりしててください、そんなのは。そんなの、っていうのは「主に学業成績が優秀である事によってもたらされるだろう万能感(のようなもの)が挫折するとき」のことだけど。

 それでも勝手にヒントをいってみるけど、なんらかのジャンルにおいて能力が都道府県1位だとする。そうすると全国に同じレベル以上が100人は、いるとする。同じレベル以上、ということを慎重に想像しながら見積もって。全世界を見渡せば5000人はいる。自分の前後5年、計10年で、×10で5万人、その5万人内のレヴェルでの、さらに上位5000人(日本で全国でその年の10本の指に入るか)に、そして500人(日本でその年の全国1位、でもその全国1位君:ぜんこくいちいくん、の能力の発露が例年に比べて小振りだったとしたら「今年ははずれ年だなあ」とかいわれますよねジャンルによっては。俺がいいたいのはそういう想像力)に、100人(オリンピック的なもののメダルを狙えるレヴェルはここからじゃないでしょうか)に入れるか、どうか、などに想いを及ばせるなどして、間違ったら万能感、全能感になりかねない自らの内側からの高揚感と、世界像(その広さや深さ)を、きちんと対峙させなければ、である。

 だから、もう一度原点に立ち返れば、ブロック崩しだってテトリスだってあやとりだって、奥深さや価値は、そのジャンルのありように応じて、外部のシステムとは別に、それそのものがもたらすものとして、ありますよ。学問だってもちろん。

 ということを考えるにつけても、何らかのジャンルで全国1位はすばらしいけれど、それによって全能感や万能感がもたらされるはずは、決して十分条件ではあり得ない。むしろ、そのジャンルにこれからも関わっていい、という実感を得られることの「安堵」や、油断すればすぐに挫折するかもしれない「恐怖・不安」や、さらにそれ以上の奥深い世界が見えてしまうことに対する「武者震い」こそ、その人間の可能性を拓くものであろう。

 たとえば硬式野球を例にとってもどれくらいの人間がプロになるのか。ドラフト1位がどれほど活躍するのか。どんな選手歴の人間が監督として活躍できるのか。甲子園準優勝投手だったものが万引きで捕まってしまう人生もある。

 だから都道府県1位や全国1位程度で(それはおうおうにして、「自分はまだ本気を出していない」という態度とセットだったりする)全能感や万能感を感じて何らかの達成感に浸ってるお坊っちゃんお嬢さんがいらっしゃいましたら、まあそのままでいいんじゃないですか。放置で。

 しかし、現実問題、全国模試何十何位、自分はまだ本気を出していない、まあ、こんな感じで偏差値60代後半以上の大学進学は、余裕っしょ、清潔な生活、余裕のあるお金、おしゃれ、趣味、認めてくれる異性、そこそこに満ち足りている自尊心、というのがあったとしたら、厄介だなあとおもう。教師として切り口が見つからない。

 そう思うと、全国模試何十何位じゃなくても、1位でも、同じメンタリティーに陥ってしまう場合だってありうる。ああ、振り出しに戻る。

 学校の勉強と成績はしかし、スポーツや芸術などとは違って、奥へ奥へと引き込む引力によらずとも、自尊心や社会的地位や名誉や初任給などのご褒美が安易に与えられやすいことも、難しさとしてあるかもしれない。奥へ奥へと引き込もうとする引力に対して「そこまで本気じゃない」という態度が用意されやすいのはたとえば趣味(そしてさらにたとえば多趣味の一つとしての)があるかもしれないが、当たり前の話だが、学校の勉強や成績は、趣味よりも、就職や進学において、実用的とされていることも問題を難しくしてるとおもう。本気出してないくせに持たせられちゃってるある程度感と、その実用性。

 学校の勉強ができて成績がいいことは、それはそれですばらしいことだが、残念ながらそのすばらしさは無意味に過大評価されている。なぜそんなことをするのかというと、みんなめんどくさいことが嫌いだからだ。

 比較的実感として、ということでもいい。学校の勉強ができて成績がいいという実感が少なからずある人は、ぜひ、もち前の分析力を学校の勉強ができて成績がいい、ということに対する過大評価の可能性を探ることに使ってほしい。そしてもし、過大評価の実感を得たなら評価を修正しつつ、世界の深さや広さについて、視野をきちっと向けてほしい。

 視野を向けるべき世界の,その深さや広さを喚起するであろうもの、については、機会をみて別記していきたい。