揮発性の高い稠密な指揮者の発する言葉〜杉山洋一・指揮ワークショップに参加して〜

杉山洋一指揮ワークショップ(以下WS)2014年8月の回に参加してきた。

指揮、というものに関して初めての感覚を体験した。

自分は杉山さんの作曲作品や指揮としての活動をこれまでにきちっと把握していなかった。(ごめんなさい)。しかしそのことが変な先入観なしで受講できたといった意味では偶然プラスに働いた面もあると思う。佐村河内氏の代筆が明らかになったきっかけで初めてその名を知った人物の一人である。余談だが新垣さんのことは共通の知人からの話題で事件の前から記憶にある人だった。だから記者会見をみて驚きのあまりその共通の知人に電話をかけてしまったほどである。

さてWSであるがまずとてもフレンドリーな雰囲気が入り口としてあることに驚いた。(奥行きを進むほどにそれはもちろん変化する)。これはひとえに杉山さんの人柄と思想・そしてそれに賛同する主催・運営・オーケストラスタディを担当するピアニストはじめスタッフのみなさんによって作り出されているとおもう。

自分は小学校2年生だった37年前にピアノのレッスンに通い初めて以降、なりにいろんな先生の個人レッスンを受けたりワークショップ型のレッスンに参加してきたし進学した教育大学では音楽を専攻した。自分が接してきた先生にはそれぞれ、なりに自分は威厳を感じてきた。それが無駄にそうであったことも少なくないような気がするし、それはそれで、それもまた相応な意味があったとおもう。無駄であることの意味というのは捉えづらい文意であるかもしれないけれども。

プロオケを振り実績のある方など、プロスポーツチームを率いる監督にも匹敵する仕事である。実際にオーケストラにポストを持つプロの指揮者を招いてなにかをしようというときに、それが学校教育における部活動対象を考えるなら、オーバーキャパなコストがかかることは通常想定される。実際プロの演奏家が中学生の指導やコンクールの審査員に招かれることはあっても、プロの指揮者が来ることは、まずない。そしてそういう指揮者の人には立ち居振る舞いからしてある種の敷居の高さを身にまとっているなあ、自分は感じたことがあった。

杉山さんはそういった類の敷居の高さをいっさい感じさせない人だった。で、だからといって音楽的になにか参加者のレヴェルに不必要な意味で迎合することもしない。プロの本気と迫力もビンビンに感じさせる。RPGでのキャラクターで武器も防具も装備せず、魔法も使わない。素手でも強い。そんなキャラクターを見るような感動があった。レヴェル99のスライムの吐く炎はドラゴンをも凌駕するといったような。

初日も二日目も最はじめの一時間は受講者・聴講者も一緒になって指揮の基礎を行った。脱力と基本の構え、基本動作。自分ではない参加者に「自分の手の外側にも大きな空間があることをもっと意識してみて!」といった具体的なイメージを伴った助言の声がする。

自分の番が来た。指定の課題であるシューマンの「子どもの情景」から1番2番7番を選択し、ざっと見ていただく。冷静になること(冷静な部分を確保しそれ以外とタイムラグをつくる)、一拍前に指示を出す(音楽を示す)といった助言をいただく。自分が持ってきた課題であるマ・メール・ロワから3番をざっと通し明日への課題が示され一日目を終える。

二日目までを終えた今だから言えることだけれども、一日目はWSの肝にふれるまでまだ距離があった。時間をおいて翌日再びWSで、続きとなる。初日の助言をもとに宿泊先のホテルに戻り限られた時間ではあるが復習と予習の時間を過ごして翌日に臨む。

二日目も一日目同様、参加者聴講者全員での共通の基礎の時間を終えてから、他の参加者のレッスンを聴講したのち自分の番。

マ・メール・ロワ第三曲から。一曲を通した後、曲頭に戻って細かく分断しながらのレッスンとなった。

杉山さんの指示はイメージは確固とした像を結ばせ、フィジカルなことについては明確で具体的である。いったん助言を話すモードに入ると言葉、というかセンテンスは多い。多い、というか稠密である。過多では決してない。過不足がない。

楽家の発する言葉で驚きを感じたことがあるのはピアニストの故・井上直幸氏のもので、NHKの「ピアノのおけいこ」というレッスン番組を担当していたもう何十年もまえの氏の言葉はとてもわかりやすかったけれども、音楽を捉えることにおいては、まだ謙虚さ由来の逡巡がところどころにみられそれは味わいがあった、数年前に出版された「ピアノ奏法」のVTRでの氏の言葉は、音楽についてとても奥深くまでがっちりつかんでいるような確信が感じられ、おののいた。言葉のわかりやすさは、その分といってもいいのだろうか、失われている、というよりセンテンスが単語ごとに切り取られるような微妙な間が入り、その言葉の発せられないわずかな時間に大切な真理が示されているような不思議な感覚を覚えた。

さて杉山さんの発する言葉である。稠密で的確な指示は、ものすごく揮発性が強い。全受講生のレッスンを聴講し必要ならメモを取る準備をしていたが、メモをさせないような(言葉だけメモしても意味ないよ、と思わせるような)揮発性だった。早口でメモをとるのが難しいとかそういうことでは決してない。杉山さんの発する言葉によって目の前でみるみる何かが生成されていく。その言葉はその指示の瞬間に一番効力を発揮する、その意味が強くさりげなく主張されているようだった。饒舌と似て非なる稠密な言葉、は、初めての体験だった。

マ・メール・ロワの三曲目の中間部、gisーmollのトニックに解決していくドミナントの部分を何度か繰り返しのレッスンをしてた時のことだ。「聴こえる」ということについて、初めての経験をした。ドミナントがはっきりと聴こえた。それは、あるいは今までと全く違ったある種のクリアさを伴った聴こえかたをした。楽譜にマーカーでチェックするといったことの「実際」が目の前で起こったようだった。「これか!」と思った。楽譜にどう書き込んでも、書き込んだだけではそんなことは起こらない。聴こえるようになるきっかけの一つにはなるかもしれないが。自分はこの体験を含めて今回のWSを通してはじめて、これまでにわかったり感じたりしたことのなかった、「指揮」とは何か、についての一部に強烈に触れた気がする。

続けてマ・メール・ロワの第5曲のレッスンになるが自分の時間も残りわずかだったので二回を通すレッスンとなる。通しの途中から杉山さんが目の前で指揮を一緒に振る。それは、世界一流のトップレーシングドライバーが自分を助手席に乗せて、難易度のあるサーキットを攻略することの解説として、タイムを取りにいくときの走りを実演してみせたようなものだった。そのあまりの贅沢さが時間がたてばたつほど記憶から染み出してくる。

杉山さんは、「教える」ということについても超一流であった。演奏家のレッスンは時に「自分から何かを盗みなさい。盗めるものならば。」という態度が根本から表面まで支配してることがあったりして、「教える技術」については自分としては疑問符が思い浮かぶことがある。しかし杉山さんは、相手を個人名で呼ぶ、必要のなく怒ることはしない、といった基本中の基本から、レッスン相手の到達度を判断し必要な課題を示す、といったことに至るまで、非常にスマートであった。

「楽譜に書き込みをする」ことと「楽譜の音が聞こえてくる」がそれだけでは直接つながらない。しかし杉山さんのWSで発した言葉は必ず何かを生成した。失礼な言い方をするなら必ず何かを生成することを強烈に志向していた。そしてほぼ何かが(それが杉山さんにとって理想的かどうかはわからないが)生成された。音楽としての何かが。

だから今回この文章を書いていて、幾度となく杉山さんがWSで実際発したことばをまだ古くならない記憶の中から整理し引用を試みようとしたが、その生成されるなにか、生成されようとする、そのこととセットでなければ意味が半減よりもさらに無くなる気がして、困惑している。

今回のWSの主催である東京現音計画のFBページにWSの写真が掲載されているのでよかったら以下のリンクより。
http://ja-jp.facebook.com/tokyocmp/photos/pcb.827994990557919/688243184589420/?type=1&relevant_count=2
http://ja-jp.facebook.com/tokyocmp/photos/pcb.827994990557919/688243181256087/?type=1&relevant_count=1

リンク先の写真は二枚とも、黒地に水色の文字が入ったTシャツをきているおっさんが俺です。