後藤健二さんのこと

 自分は普段、職場で、つまり授業でやってることは、なるべくネットに流さないようにしている。なんというかそこは自分なりの自主規制を敷いている。けじめというか。具体的に誰がどんなことをやったとかいったとかはやはりプライバシーに関わるからだ。学級通信など、具体的に誰がどんなことをやったとかいったとか、そういうことから十分な距離があるものについてのみ、ネットで公開してきたつもりである。

 しかし、今回は少し意味が違う。(でも具体的にだれがどんなことをやったとかいったとかについてはやはり気をつけて発信はしたい。)なぜなら、法政大学の水島氏がNHKの「あさイチ」での柳澤氏のコメントに触れいったこと、

 私自身もだいぶ以前、テレビのコメンテーターを務めた経験があるが、大きな事態に、大事だと思うことを、適切な言葉を選んで視聴者の心に届くように話すということは簡単にみえて、実際にはとても難しい作業だ。番組の限界や局の限界もある。だが、コメンテーターにとって本当に大事なことは、こうした節目の事態にこそ、きちんとした「見識」を示すことだろう。

 このことは、公教育の教員にもいえるんじゃないか、と思ったからだ。
 
 2月2日の月曜日、道徳の時間を使って、後藤健二さんの事に触れた。この日発行の学級通信を読み上げた。以下。*************〜*************が学級通信。

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【自分の目で見て自分の耳で聞くことの大切さ】

 いままでも日本人が外国でひどい目にあって、そのことで日本政府が大変な判断や苦労をしなければならないことは、ありました。ここ十数年は、そのたびに「自己責任」という言葉がセットでそうした事件が語られるような事が多い気がします。この場合の自己責任というのは、つまり、危ない所にいって危ない目に遭ったのはその人の責任なのではないか、だから大勢の人を巻き込んだ救助活動をするのは、皆に迷惑をかけるだけ、自分の責任でそういう目にあったら自分の責任でなんとかするべきではないか、という考えだと、自分は受け取っています。

 今回の事についても、そのような意見を持つ人もいます。そのような意見を持つ権利は、自分は,しっかりと保障されなければならないとおもいます。しかし、そのとき、大勢のひとがそのようにいっているから、きっとそうなんだろう、と思うことは、どうでしょうか。強い意見、大勢の人がきっとそう思うだろう意見に出会ったときこそ、では自分自身の考えはどうなんだろうと、あらためて振り返ることが大切だと思うのです。

 『民主主義(時に多数決で物事を決定する)のいいところは、何が正義であるかについて、それは常に空欄であるからだ。』という考えがあるそうです。なかなか考えされられる言葉だとおもいます。

以下に、以前に書かれた後藤健二さんのブログの記事を紹介させてください。

投稿日:2014年7月11日 作成者: Kenji Goto

http://ipgoto.com/archives/1829?utm_content=buffer7ed1c&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

(学級通信では、リンク先の文章をそのまま転載した)



後藤健二さんのご冥福をお祈りします。


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 この学級通信を読み上げながら、世の中にはどこかの国が、その国丸ごと非難されることもあるけれど、しかしその国にすごくひどい人がいたり、それもたくさんいたりしても、その国にうまれた赤ん坊まで非難されるのは、ちょっと違うと、自分は、思っている、ということを話した。その国を丸ごと非難したり攻撃したりすることはその国にいる何の罪もない弱い立場のひとを巻きこむ可能性もあるのではないか、どうだろうか、ということを話した。

 教室の生徒が真剣なまなざしになる。そしてうなずく。教師ってこわいな、って思う。ああ、自分はこれ以上の事はいえない、と思う。あとはそれぞれが自分の力で、必要な考えにたどりついてくれ。俺が教師という立場で学級をシーンと静かにさせて言っても、それは誘導の域を逃れる事ができないから。

 柳澤さんのコメントも紹介したかった。柳澤さんのコメントに触れた水島さんの考えも。弁護士の伊藤和子さんの言葉も。

 教室で教師という立場からシーンと静かにさせて、俺が紹介するのでは、意味が違ってしまう。みんなどうか自分の力で辿りついてみて、自分でそれぞれの考えと向き合ってほしい。