小池まどか ヴァイオリンリサイタル

小池まどか ヴァイオリンリサイタルを聞く。〜20世紀から後期バロック時代のフランス音楽〜という副題がつくプログラムは以下。

 オリヴィエ・メシアン :主題と変奏
 モーリス・ラヴェル  :ヴァイオリン・ソナタ
 クロード・ドビュッシー:ヴァイオリンとピアノのソナタ

休憩

 ジャン・マリー・ルクレール    :ヴァイオリンソナタ第3巻 変ロ長調
 ジャン・フィリップ・ラモー    :コンセール 第1番
 エリザベス・ジャケ・ド・ラ・ゲール:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ

 いきなり、メシアンである。そして、前半はモダンバイオリン、後半はバロックバイオリンに持ち替えて、のプログラム。開演前のロビーから「プログラムがいいね」の談話が飛び交う。というか自分は器楽のコンサートでこういった趣向のものは、初めてである。くまなく調べればあるのだろうが、普通は多分だれもこんなプログラムは組まない。「プログラムがいいね」の本音は「いったいどうなってしまうのだろう」という驚きや期待も含まれることだろう。

 一曲目、メシアン。ヴァイオリンの小池が、音楽に対して何か決断が迫られたときに、調和よりも攻めを、ブレーキよりもアクセルを上位に置く資質があるのでは、と思わせることを、ふと、感じる。メシアンを聞いただけでは気づかなかったことだが、一曲目のメシアンは、この演奏会の思想として、譲れないものであり、またヴァイオリニストと、ピアニストの、広義のチューニング、それは演奏家として音楽に対してそれぞれがどのような姿勢で臨むかの確認にも思えた。

 二曲目、ラヴェル。いや、たとえば、二楽章の「ブルース」などは、もっとジャズのイデオムでてるのだから、ぐらぐらやったらとか、そのときは思ってしまったが(単にルバートが、とかではなく、その、デュナーミクにおいてとか、)、それは、ちがうんだなあ、と自分自身に対して数十分後、つぶやくこととなる。必殺技を持つものに、必殺技「のみ」を期待するのは、なんというか、鑑賞者として浅はかではないか。それは、フィギュアスケート、といったらイナバウアーがでてこないと物足りない、とおもったり、に近い感覚か。車のレースで、コーナーで高速ドリフトを期待してて、それがないと、「ちぇ」っと思ったり。レースなんだから、どれくらいの速さを出せるか、が問題なのに、みたいな。でも、ときおり、ピアノとヴァイオリンのそれぞれの音楽が、バチ、バチ、っと光を発する瞬間があるのを感じる。

 三曲目、ドビュッシー。弱音での表現など、ラヴェルの二楽章で感じたような、その部分でのもの足りなさを、そのときは感じつつも、ラヴェルで感じた「バチ、バチ」の光の正体が分かる。ピアニストと、ヴァイオリニストの個性が、似通っているわけでも、正反対なわけでもなく、微妙なずれ具合な中、お互いの音楽の、(個性として)もっているピース(断片)を、それ以外ないピンポイントなやり方で、パシっとハメに来ているものだった。それは、「あわせる」とか、「つける」、とかでは決して、ない。でも、また、音楽が、メシアンで感じた小池の資質として、「攻め」とか、「アクセル」とか、が、そのまま、大げさな表現になるものでもない。一楽章のヴァイオリンの最初のフレーズの山のフォルテなどは、十分抑制が効いていて、エスプリを感じさせるものである。それでもなんというか、時折、「おお」っと思うようなピアノとバイオリンの個性の組み合わさり方が、突如、これでもかという色彩の音楽を奏で出す。音の虹を見るような思いがした。

 前半終了。いい音楽に接して顔が自然にほころぶ。うれしくなる。幸福な気持ちで「ふーん」と思いつつ後半に期待が膨らむ。

 古楽コンクールでの優勝経験もある小池のバロックバイオリンによる18世紀前半の作品は、音楽家としての風格を感じさせる見事なものであった。プログラムの後半のこの並びでは、ラモーがやはり、作曲家として突出していることを感じさせる。演奏もさることながら、作曲作品に確かに歴史に名を刻む個性があることがわかる。ビバルディの凄さや、J.S.バッハの、それまでの音楽の深さを底なしにしてしまうような迫力を同時に思う。ラモー以外の作品は、作曲作品がどう、ということより、この時代の作品としての、演奏の見事さである、のではないかなあ、と思わせる。それは決してこの演奏会のネガティブな面ではない。それは、そういうものとして、自分は堪能できた、ということである。

 先日、和太鼓と三味線のユニット、「閃雷(センライ)」のライブを見た。邦楽(日本音楽)を基盤としているので、ジャンルとして最初から行き詰っている、というより、それは悪い意味ではなく、実験・前衛の正反対の方向で、まず、太い枠組みを引き、その中で、安心して暴れよう、というエネルギーを感じた。安心して、というのは言葉がわるい。ならば、効率よく、だろうか。実験したり、前衛精神にエネルギーを費やしたりするとそれだけでエネルギーを消費してえらく効率がわるいじゃないか、といわれれば、さしあたっての反論はむずかしい。そういうジャンルのあり方は、または、活動のあり方は、自分は「はっ」とさせられる。で、世界をみわたすと、そうした伝統文化の保守のエネルギーをそのままに、同時に実験・前衛精神のエネルギーも、両方向最大限に奇跡の両立をアクロバティックに成立させたひとの、一人は、ピアソラ、だとおもう。

 J・S・バッハに限らず、ベートーヴェンも、それまでの音楽のあり方を根本から更新した。ドビュッシーそして、メシアンも、それに並べて差し支えないだろう。それは公式を展開して、それまでにはない解のあり方を示したみたいにもおもう。このヴァイオリンリサイタルは、西洋音楽の、その時代に、もっとも先まで行き着いたであろうひとつの解から、始まった。そして、ヴァイオリンの小池は、「攻め」の姿勢で「アクセル」を踏んで、西洋音楽史の、因数分解をして見せたのである。普段、展開して解を求めるのが、ひとつのオーソドックスな方向だと思っている自分は、このリサイタルを聞き終えて、そういう方向とは逆の、因数分解の見事さを堪能した。

 それにしても、ピアノの倉戸である。この意思のあるプログラミングを、見事にサポートしていた。前半全体を聴き終えたとき、メシアン、と、ラヴェル、とドビュッシーと、影響はあるものの全く違う個性の作曲家の作品を、そのヴァイオリニストの意思を呼吸し、これ以外の並びがあるだろうか、というほど、自然な音楽の流れにしていた。フレーズが長くでこぼこしていない、どころではない。音楽会のプログラムが自然に接続され、でこぼこしていない。この一因は、確実に倉戸のピアノの見事さにあるとおもった。ピアノの演奏技術ももちろんだが、それより、音楽家としてのプロフェッショナルな姿勢を感じさせられた。

平成22年9月23日、木曜日、仙台市シルバーセンター交流ホールでの演奏会を聴いて。

プログラム前半
ヴァイオリン(モダン):小池まどか
ピアノ:倉戸テル

プログラム後半
ヴァイオリン(バロック):小池まどか
ヴィオラ・ダ・ガンバ:中野哲也
チェンバロ:梅津樹子